2011年3月31日木曜日

朝日新聞3月31日朝刊記事「全電源喪失 米、30年前にシナリオ」

記事によると、
アメリカの研究機関が1981年から82年、福島と同型の原子炉について、すべての電源が失われた場合のシミュレーションを実施、報告書を米原子力規制委員会(NRC)に提出していたことがわかったという。NRCはこれを安全規制に活用したが、日本は送電線が早期に復旧するなどとして、想定しなかったという。そのなかで、原子力安全研究協会の松浦洋次郎理事長(元原子力安全委員会委員長)は「何もかもダメになるといった状況は考えなくてもいいという、暗黙の了解があった。社会の状態に対するある種の信頼があったからだ。隕石の直撃など、何でもかんでも対応できるかと言ったら、それは無理だ」と話したという。


2011年3月31日朝日新聞朝刊

隕石の直撃と電源が失われるということとは次元の違う話だと思うのだが、今回の事故では、NRCのシミュレーションがそのまま当てはまるという結果になってしまった。おそらく、ほとんどの人は電源が失われた場合の推移が、こうなるということは知らなかったと思うし、既に30年も前にアメリカの原子力政策でこのシミュレーション結果が生かされ、地震国日本では軽視されていたということについても知る人は少なかっただろう。

今回の地震と津波に対する警告



以下は2009年6月24日に開催された原子力安全・保安院の会議の議事録。この会議の席上、地震学者の岡村行信氏が福島第一原子力発電所を含む各地の原発について、津波の驚異に対する基準の見直しに言及していた。


総合資源エネルギー調査会原子力安全・保安部会 耐震・構造設計小委員会 地震・津波、地質・地盤 合同WG(第32回)議事録
http://www.nisa.meti.go.jp/shingikai/107/3/032/gijiroku32.pdf


以下抜粋・・・


○岡村委員 まず、プレート間地震ですけれども、1930年代の塩屋崎沖地震を考慮されているんですが、御存じだと思いますが、ここは貞観の津波というか貞観の地震というものがあって、西暦869年でしたか、少なくとも津波に関しては、塩屋崎沖地震とは全く比べ物にならない非常にでかいものが来ているということはもうわかっていて、その調査結果も出ていると思うんですが、それに全く触れられていないところはどうしてなのかということをお聴きしたいんです。

 ○東京電力(西村) 貞観の地震について、まず地震動の観点から申しますと、まず、被害がそれほど見当たらないということが1点あると思います。あと、規模としては、今回、同時活動を16考慮した場合の塩屋崎沖地震でマグニチュード7.9相当ということになるわけですけれども、地震 動評価上は、こういったことで検討するということで問題ないかと考えてございます。 

○岡村委員 被害がないというのは、どういう根拠に基づいているのでしょうか。少なくともその記述が、信頼できる記述というのは日本三大実録だけだと思うんですよ。それには城が壊れた という記述があるんですよね。だから、そんなに被害が少なかったという判断をする材料はないのではないかと思うんですが。

○東京電力(西村) 済みません、ちょっと言葉が断定的過ぎたかもしれません。御案内のように、歴史地震ということもありますので、今後こういったことがどうであるかということについては、研究的には課題としてとらえるべきだと思っていますが、耐震設計上考慮する地震ということで、福島地点の地震動を考える際には、塩屋崎沖地震で代表できると考えたということでございます。

○岡村委員 どうしてそうなるのかはよくわからないんですけれども、少なくとも津波堆積物は 常磐海岸にも来ているんですよね。かなり入っているというのは、もう既に産総研の調査でも、 それから、今日は来ておられませんけれども、東北大の調査でもわかっている。ですから、震源域としては、仙台の方だけではなくて、南までかなり来ているということを想定する必要はあるだろう、そういう情報はあると思うんですよね。そのことについて全く触れられていないのは、どうも私は納得できないんです。

畑村洋太郎「失敗学のすすめ」に津波に関する記述が

畑村洋太郎氏の2000年に刊行された単行本「失敗学のすすめ」の94ページに以下の文章が記されている。



『失敗情報が減衰することを示す典型例をもう一つあげましょう。昔から何度となく大規模な津波被害を受けてきた岩手県三陸海岸を歩いたときに実際に見聞した話です。津波というのは、海底地震や海面への氷河や岩石の崩落によって発生した海面が伝わり、高い波となって海岸に押し寄せるもので、天候に起因する高潮とは区別されます。入り組んだ海岸線を持つリアス式海岸では、先に来た波が後ろから来る波に追いつかれて徐々に波高を上げていくという現象が起こりやすく、V字型湾ないしU字型湾の湾奥にある集落に大きな被害をもたらします。三陸海岸は、津波被害を受けやすいリアス式海岸であるばかりか、沖には地震の巣である日本海溝があるため、世界一の津波常襲地帯として知られ、何度となく津波被害を受けてきました。津波は学術用語として「Tsunami」で世界に通用します。その三陸海岸の町々を注意しながら歩いてみると、あちらこちらに津波の石碑を見つけることができます。大規模な津波が押し寄せるたびに作られたもので、犠牲者も多かった古い時代の石碑は慰霊を目的にしていました。その中には、教訓的な意味合いが込められたものもあり、波がやってきた高さの場所に建てられ、「ここより下には家を建てるな」という類の言葉が記された石碑も少なくありません。九十五ページの写真を見てください。この石碑にはここより下に家を建てるなと書いてあるのに、そのすぐ下に家が建っているのです。日々の便利さの前にはどんな貴重な教訓も役立たないことを物語っています。昔から伝わるそんな忠告を人々が忠実に守り、いまでも石碑より下には絶対に家を建てないなど徹底した津波対策をとっている地域ももちろんあります。かと思えば別の地域では、便利さゆえに先達たちが残した教訓を忘れて、人が次第に海岸線に集まっているところもありました。そんな地域もいまでは防潮堤がつくられるなど対策がとられていますが、その昔は教訓などまったく忘れたある日、再び突然やってきた津波ですべてが押し流されてしまうということもあったのです。その経験もやはり石碑に教訓として刻まれたりしますが、それでもなお一部の地域では便利さゆえに海岸線に住み続けています。このように、一度経験した失敗がごく短期間のうちに忘れられ、再び同じ失敗を繰り返すことは珍しくありません。三陸海岸という津波常襲地帯で行われてきた過去の例にも、「失敗は人に伝わりにくい」「失敗は伝達されていく中で減衰していく」という、失敗情報の持つ性質がはっきりとうかがえます・・・・・』

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今回の東北地方の震災は不幸にして、昔の失敗情報が正確に伝わっていなかったという最悪の実例になってしまったようだ。

2011年3月25日金曜日

東日本大震災・・・助け合いの精神

もしかすると、災害時に日本人がこれだけ統制がとれ、おのおのの不平不満を言わずに、海外からも賞賛の声が多数上がる。美徳と言っていい日本人一般の特質は、日本で昔から災害が多く発生してきた歴史と関係があるかもしれない。災害時は戦争と違って、皆平等である。災害弱者は生ずるが、それは結果であって、人間が人間に対して不公平をした結果ではない。例えば内戦などが多く発生する国だと、自国民同士でも、いつまでたってもいがみ合うということがあるかもしれない。しかし災害は基本的に人間がえり好みをして、艱難を多く与えたり、少なくしたりということがない。あくまでも偶然性が支配する出来事なので、罹災した人々はお互いに共感の和で結ばれる。そしてその共感の力が日本を作ってきたのではないか。

新潟を含め、近隣各県は原発放射能漏れの避難者を積極的に受け入れているようだ。緊急時なので受け入れ経費負担などは速やかに処理しているのだろう。これも今までの災害の経験が生きているようだ。速やかに災害対応にシフトできるのが行政に課せられた指名のひとつ。それは、国がやればいいとか、誰かがやってくれるだろうという次元では、一刻を争う状況に対する対策の遅延が、事態を悪化させてゆくということを知らしめるのに、報道が毎日のように取り上げていることが効果を現している。テレビは速報性で。新聞はきめ細やかな情報収集のための道具として。ウエブはまだまだ正確性という点での信頼性に欠けるところはあるが、テレビや新聞で抜け落ちている部分を穴埋めするためにはいいのかもしれない。

2011年3月21日月曜日

吉村昭「三陸海岸大津波」

吉村昭氏の過去の津波のルポである。ネットで調べて購入。読んでみて驚いた。恐ろしく今回の津波と似通っている津波が過去に何度も起きていると言うことが。

地震の前にこの本を読んでいたら、少し誇張があるのではと思っただろう。しかし・・・情報伝達手段が発達し、災害に対する対策が昔とは比べものにならないくらい進んでいる、と思われる現代でも、恐ろしいくらい被災の様子は似通っている。実際は吉村氏が描写した恐怖よりも恐るべき阿鼻叫喚をきわめた災害になってしまったような気がする。

2011年3月17日木曜日

3月15日の陸前高田市内

陸前矢作付近(海から8キロ程度内陸)
この日は朝3時に起きて、昨日戻った道を陸前高田へ。国道343号線で市内に入る手前、海から8キロくらいの場所から津波の被害が始まっていた。竹駒というところで気仙川沿いから分かれ、鉄道沿いの盛り土の右側の低いところを流れて、被害を出した。この場所で標高数十メートルはあるのではないか?写真で見える場所の住宅でおじいさんが亡くなったと教えてくれた方の住宅は一階が浸水して、すぐ後ろの山側の家は難を免れた。


気仙川沿いに市内中心部に向かう途中も、がれきや乗用車やタンクローリーが、川であろうと道であろうとあたり構わず散乱していた。


栃ヶ沢(酔仙酒造や高田酒販があり、お酒の匂いが・・)
市街地が見え始めたところで、写真のようにがれきが数メートルの山となり、それ以上先に進めないところで車を止めた。気仙川沿いの低い場所ではなく、山が迫っているので、海から2.5キロくらいの位置で津波は止まっていた。しかし、この場所で標高30メートルから40メートルはあるのではないか?津波の被災した最前線で明暗を分けている。阪神大震災でも、中越沖地震でも経験していない津波による被害の様子を初めてまのあたりにし、表現する言葉が見つからない。地震による直接的な倒壊等の被害が少ないため、この場所で振り返ると、地震や津波があったとは思えないほどの違いを見せていた。



被災した陸前高田中心市街地を望む
テレビでは繰り返し被災時の様子やその後の惨状を目にしているのだが、実際にその場所で見るのはやはり違う。表現力がないせいもあるが、言葉で表現しきれなく・・・では映像で表現できるかというと、やはり映像は映像でしかない。映像の限界である。すでに言葉もなにもかも、表現する方法を失ってしまっている。これだけの光景を目の当たりにして、理屈で考えられることには限りがある。たくさんの人が死んだ。たくさんの生活や縁が絶ちきられた。少し前まで何も問題のなかったところが、見渡す限りの残骸の町になった。どう理解すればいいのか理屈では・・・

とにかく多くの人たちの生命と生活を形作っていた様々なものが断片化し、かき混ぜられて、今まであり得なかった荒漠とした光景を生み出してしまった。感覚も感情も涙も凍り付いてしまうような光景を。


流された自宅から衣類を運ぶ夫婦
今回の地震では揺れの後、津波が町に到達するまで、非常に短い時間しかなかった。場所によって違うが、15分から20分くらいと言われている。これでは陸前高田のような大きな町では、ほとんどの住民が逃げる時間がない。しかもこんなに大きな波が来ると想像した人はおそらくほとんどいなかったことだろう。
山際に近い住宅にいた人の中でも、たまたま誰かから連絡を受けたり、津波が押し寄せてくるのを見たりして山に駆け上がり、間一髪で逃げられたという人が多かったのではないか。写真に写る赤い屋根の住宅に住んでいた老夫婦も、水に足をさらわれかけたという。奥様は2年前に足を骨折して、多少不自由があったらしいが、その時はうそのように走れたという。家は山際に近いため、数十メートル流されて、止まった。物置は40メートルほど更に山側、すなわち内陸に流されていたが、どちらも屋根がのこり、母屋は二階部分が残ったため、ご夫婦で、できる限りの荷物を運び出していた。


写真を仕事にしている私としては、どうしても、被災地に散乱している写真やアルバムに目が行く。この写真に写っている子供は今どうなっているのだろう?記念写真というのは人間関係の幸福のバロメーターかもしれない。その幸福を感じさせてくれるような写真を見ると惨禍の悲惨さが一層身に迫ってくるものがある。不思議と被災地のあちこちに写真がたくさん散乱していた。



3月14日南三陸町に入る

3月14日、被災地に入った。三陸地方は山あいの道を通って海岸の町に行く。地震の時には陸の孤島になりやすいのかもしれない。新潟を昼近くに出たために、既に日が暮れ始めて、暗闇になる直前に南三陸町に入ったが、暗い中でもその被害の様子を見ることができた。三陸鉄道の高架から線路が垂れ下がり、道路から10メートルくらいある鉄路の上に車が乗り上げていた。あちこちLED懐中電灯の光が揺れていた。脇を通過した光を持った被災者と思われる人に黙礼された。

町に入るためのその道路は、三陸鉄道の高架のあたりからは寸断されていて、それ以上は行けなかった。そこから先に歩いてゆくこともできず諦めて、その日は平野部に戻った。平野部もどこまで行っても真っ暗闇で、時々車のライトが光るのみであった。信号も街灯も町もなにもかも暗く、目印が少ない知らない町で、ナビのついた車で走っていても、さ迷っている感覚だ。ガソリンスタンドもコンビニもスーパーもなにもかも電気が消えて、食料もガソリンも心配になってきた。その日は築館の町で車中泊。

2011年3月9日水曜日

「瀬戸内国際芸術祭2010」記録集

今日は東京日帰りで写真の最終校正作業に行ってきた。とても美しい新雪の湯沢の谷間の高速を経て、関越トンネルをくぐると、枯れさびた谷川連峰の麓の上州の風景だった。本当に不思議なくらい違う分水嶺をはさんだ春3月の風景だった。

校正作業
神田神保町での校正作業中、はっきりとした地震の揺れ。最初は比較的短い周期の地震、そのうちゆっくりとした長周期の振動になった。すこしの間、天井を見ながら揺れの収まるのを待つ。編集プロダクションはビルの二階、編集部員の方々はひたすらパソコンに向かう光景を目の前にしての校正刷りのチェック作業。途中食事、二時?のおやつをいただき都合3時間ほどの作業の後、帰途につく。

記録集のページ立てはバラバラでよくわからなかったが、表紙周りやカバー扉などのデザインが気に入った。芸術祭の会期の遙か前から撮影を始めた風景等がふんだんに使われていて、「水と土の芸術祭2009」の記録集同様、風景を積極的に撮影してきた結果が反映されていて、できあがりがとても楽しみだ。

2011年3月7日月曜日

田中ウルヴェ京さんの講演

先日、ソウルオリンピック銅メダリストの田中ウルヴェ京さんの講演に誘われて行ってきた。京さんはオリンピックの時に小谷美佳子さんとデュエットを組んで前回のオリンピックから正式種目になったシンクロで銅メダルを獲得した人。

講演のタイトルは「メンタル対策で差がつく企業力」

15歳からシンクロナイズドスイミングの世界で活躍してきた京さんは11年前にメンタルトレーナーの会社を興し、最初は主にスポーツ選手向けのメンタルトレーナーの業務を行ってきた。今は様々な分野、特にビジネス社会向けのトレーニングを行うことが多いという。

なぜメンタル対策なのか?・・・それは実力を出すため!

例えば人生の節目を迎えた人や戦力外通告を受けた人にも役立つ。人生を前向きに生きたい、こうありたいという目的のある人にメンタル対策を施すのは楽である。問題はそうでない人に対するメンタルトレーニングは難しい。

スポーツ選手は自分自身の目標、対して企業戦士の目標は?会社の目標や組織の目標と自分の目標とのすりあわせが難しい。

目標がない人にはどう対処するか?
それには、「自分を知ること」そこから自己目標を知ることができるようになる。

企業人には自分を知りたくないという人がいる。つまり企業の中で会社の目標の中で自己目標を沿わせ、自己実現してゆくことができない、したくないという人たちがいる。


大学4年で銅メダルをもらった京さんは小さい頃から歴史に残る人物になりたと思う。小さい頃から死ぬのが怖いという感情にとらわれ、寝ることもできないほどに悶々とすることがあった。そういう不安感を払拭する考えとして出てきた結論は歴史に残る人物になるということ。メダリストになればその後の人生が何とかなると思った。しかし成功したと思った時点でその後の目標がなくなる。なにか勘違いをしているということが後になってわかる。


「自分を知らない」というストレス。
間違った自分像・・・認知行動療法ではエゴ(〜であるべき)、自分はこう見られるべき、自分はこう扱われるべき。しかし社会は自分の思う自分像を与えてくれない。したがって自分を悲劇のヒロインにする。自分なんかどうせ〜・・・という考えに陥る。

自分にはストレスなんかない。そんな自分ではないという相対評価を経て。マイナススパイラルに陥る。

最後は、ネガティブな達観に至る。「別に・・・」「こんな自分でいい」「それで当然だ」という感じ!

京さんはマイナススパイラルに陥っている自分を知らなかった。

そんな時に、新聞の特集で「あの人は今」というタイトルの取材依頼に愕然とし返事の声がうわずってしまい声にならない。電話を切った後に泣いてしまった。例えば自分が失敗したときに人のせいにしたりすることや、自分の現状を人のせいにするというような状況に陥っていた。そんな心理状態ではよいことが起こったときにも喜ぶことができなくなる。

強烈なストレス!

その後アメリカに留学。27歳の大学院の時に教授にライフラインを書かされた。それは縦軸に幸福感、横軸が年齢のグラフ。京さんはすべてプラス側だったが、本来はゼロを中心に推移すべきグラフだ。

このグラフの意味は何をやり遂げたではなく、どう感じたかという幸福度をチェックする意味。一流の競技家には過去の成功によって今現在の自分自身に自身がないという人が多い。

その後のトレーニングで感情日記を書かされるようになった。それは日々の出来事とその時の感情を記してゆくものだ。京さんはこれまで出来事に対して動じる自分を他の人に見せることができなかったが、その対策でもあった。感情を出すのはストレス対策にもなる。要は出来事が自分を落ち込ませるのではなく、そのことによって勝手に自分が落ち込むということを冷静に考えさせることができるようにするためのトレーニングでもある。

その「勝手に自分が思う」ということがその人の考え方の傾向を決める「考え方のフィルター」だということなのだ。その人の考え方の癖とも言える。

大学院の先生は日々の感情トレーニングを通して、京さんに自分の感情を素直に出すことの大事さを教えた。人は感情の動物だ。その感情に向き合いコントロールすることが大事だ。いらいらするのはなぜか?嫉妬するのはなぜか?先生は京さんが小谷美佳子さんに対して嫉妬を抱いていたことを自ら気づいたことを褒めた。先生自身も70歳を過ぎてもたくさん嫉妬することがある、と説明した。

そしてそういう自分に気づくことが大切で、気づけば自分を変えられると説いた。




最後に、京さんは三つの格言を紹介!

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1)Success is doing your own thing for the benefit of others「成功とは他人のために自分のやりたいことをやることだ」

2)リーダーはマトリョーシカの(一番小さな)人形になれ。

3)普通とか一般とか常識とかを考えるな。

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2011年3月1日火曜日

アートの魅力でまちづくり−小川弘幸氏の講演

新潟市都市政策部市街地整備課まちづくり支援室主催の「まち作り講座」5回シリーズのうちの一つを聴きに行ってきた。

NPO文化現場を主催する小川氏は、東京に住んでいた坂口安吾が戦後まもなく出身地新潟の新聞社の文化誌に掲載した「地方文化の確立について」という記事に出会い、東京の亜流ではなく、独自のものを目指せ、文化が大事だ。と説いている安吾に大きな影響を受け、「よみがえれ安吾」を出版。その後、倉庫美術館、天寿園などを経て独立。

倉庫美術館に籍を置いていたときに、アパルトヘイト否!という美術展を日本で巡回していた北川フラム氏と出会っている。そして天寿園では実川館長のもと、当時家庭の雑排水などでかなり汚れていた鳥屋野潟の環境などをテーマにした地域作りなどに関わり、文化と環境などを絡めた活動に興味を抱く。

小川氏が考える「地域の文化度」とは?文化を育む土壌があること。それは文化的な場を作る人がいることや、場をつなぐ人がいることと説く。大地の芸術祭にはとても関心を持っていたので2000年の第一回から行っている。

そのうち「水と土の芸術祭2009」が開催される。唐突と言ってもいいような感があった。新潟市が政令市となり8区の一体感をはかるために開催された面もある。しかし「水と土・・・」というテーマは限りない可能性を持っている。海を越えて広がる可能性や新潟のアイデンティティにかかわる大きなテーマになる可能性がある。対して、同じ新潟市が昨年から主催しているラフォルジュルネはフランスのナント発。ラフォルジュルネは一方向だからある意味楽かもしれない!しかし「水と土・・・」は新潟発だから自分たちで組み立ててゆく必要がある。だから面白い。市民の活動意欲を喚起する企画になるだろう。時間をかけても対話し、核となるものを(理念)を見つけ、市民同士共有。それを元に2012年の芸術祭をスタート。

この芸術祭の企画は市民が主体的に関われるいい機会なので自主的に関わり、企画も作れる面白さ。「水と土・・・」の縁でどんどん外部や世界と広がる可能性。2009年の第一回は市民にどれだけ知られていたか疑問だが、一回やって終わりというのではなく、継続すべき。行政と市民の協働のいい機会でもある。

だいたいこんな内容だったように思う。