2011年11月23日水曜日

新潟市立万代長嶺小学校四年生の萬代橋ワークショップ


万代長嶺小学校は萬代橋に隣接する場所までが校区だ。その校区の利を生かして、総合学習では萬代橋をテーマにしている。先日の6年生の萬代橋を撮影する野外授業に続いて、今回は4年生の授業だ、「萬代橋の魅力」について話しをしてもらいたいという依頼だったが、私の話で子供たちが退屈しても・・・ということで今回は体を動かしたり手を動かしたりするワークショップ授業にしてみた。萬代橋の話は必要最低限に抑え、少しでも記憶に残る授業を体験してもら内容にしてみた。
写真は塩田美幸さん提供
 萬代橋はいわば新潟の象徴と言われている橋だ。昭和29年竣工で世界恐慌のまっただ中に立派な橋を作ってくれた先人の意気込み。そして完成した丈夫で美しい橋は82年経った今に至るまで、古さを感じないのに、地域の誇りとなっている。結果、地元の小学生にとっても、格好の教材にもなっている。

授業内容は5人一組での組み体操で萬代橋を作る体験。その後に、紙で萬代橋を作る工作ワークショップ。最後は私のカレンダーに使用してきた写真をプロジェクターで披露、おまけに以前私が市民プレゼントに使った萬代橋のポストカード二枚セットでプレゼント。合間合間に萬代橋の話を織り込みながらの約1時間は子供達にとってはリラックスタイムになったようだ。初めて考えたメニューだったのでどうなるかと思ったが、けっこうみんな楽しく取り組んでくれていた。
写真は塩田美幸さん提供
長嶺の子供達は共同作業は慣れているようで、組み体操の見本をみせたら、お互い協力して一生懸命に取り組んでいた。初めての体験だからうまくいかないようだったが、橋の構造を全身で体験してもらうための格好のウォーミングアップ体操になったのではないか?組み体操の最後には萬代橋の6連アーチならぬ10連以上のアーチに挑戦していた。みんなで一緒にやる楽しさで、リラックスできたのではないか。その後は紙で萬代橋を製作。見本を見せたらそれぞれのオリジナルのアーチ萬代橋を作っていた。橋作りは一人一個とは限らず、チームで全部つなげた子供達もあり、もっと面白い橋を作りたいという興味が湧いてきたようだ。家に持って帰って、もっとやりたいという声も聞こえた。

子供達は楽しいことから学ぶことが大好きだ。 最後に、ウォン・ウィンツァンの音楽をBGMにした3分ほどの写真上映は子供達もきれいだと思ってくれたらしく。いろいろ質問がでていた。

おまけのポストカードプレゼントでは、先生の提案で実際に遠くの知人や親戚に向けて、今回の授業の報告や萬代橋のPRなどをさせようと、授業で取り組む教材ということに。

今回の授業では、萬代橋一つでいろんなことが考えられるという可能性を子供達が感じてくれたのではないかと思う。私も子供達と一緒になって遊ぶことが出来、楽しい授業だった。

2011年11月17日木曜日

第六回越後「愚の講座」ー美術に何ができるか?ー

北川フラム氏による、愚の講座も六回目、これが最終回となる。しかし学びはようやく緒に就いたばかりか、いや入り口にも立っていないようなもどかしさを感じる。芸術がこれほど深いものを提示しているということは正直この講座に出て始めて理解できた。だから芸術なのだろうか。取り組み方によって芸術は非芸術にも芸術にもなる。諦めずに学ぶことにしたい。

311は日本国民すべての問題である。衝撃的な映像をほぼ全ての国民が見て、これを避けては通れないものになった。被災していない人たちもこれを共通の体験として受け止める必要性がある。新潟の弱さは行政の枠組みの中でしか(芸術祭が)出来ていない。もっと市民レベルで問題意識を持って取り組む必要性。そして学ぶ必要がある。補助金付けでは育たない。
(四国の玄関口)高松は企業経費の2〜3割が来て潤っている。新潟などの都市もいなかに比べると、自前の苦労をしなくても、まだまだ余得がある。補助金などに頼るNPOや市民団体が多く、危険な兆候だ。タフな若者が出てくるか疑問だ。戦後日本が作り出してきた余得を食いつぶしている状況が続くが、これからはそうはいかなくなって来るであろう、と。

2011年11月16日水曜日

萬代橋の強度


私は専門家ではないので新潟地震に耐えた萬代橋の工学的な強度は知らない。7月に起きた豪雨禍でも問題はなかった。昨日はニュースで新潟大学の先生が津波の時には信濃川を逆流する津波の被害が川の沿岸部に起きるだろうと予測していた。その程度によっては萬代橋もまた被害を受ける可能性があるだろう。今日の新聞を見ると、東北の川にかかる橋の中には一旦津波で浮き上がってから横に流された橋があるという。これは今までの耐震基準では防ぐことが出来ないらしい。程度の問題はあるだろうが、上方向の強度、つまり重力で保たれている強度は想定外なのだろう。それは萬代橋も例外ではないかもしれない。

2011年11月15日火曜日

新潟の風景

新潟は海・山・川・田園・森林など、多様な自然を有している素晴らしい場所です。しかも一年を通して多様な姿を見せてくれる日本海側気候とも言えるような特徴的な地帯にあるといえます。その特徴を一言であらわすことは難しいのですが、あえて言うと豊かな水が呈する様々な風景を見ることが出来る土地柄だ、と言えます。そんな新潟を紹介したくて以前からパノラミオに写真を掲載しております。新潟に住んでいる人たちが改めて見直すきっかけになるように!そして世界中の人たちに見てもらって、新潟に良いイメージを抱いていただけるように。
>^_^<
以下パノラミオの新潟の風景ページです。

2011年11月13日日曜日

朝日新聞11月9日《ニセ科学って何だ?》より

血液型に関してなぜこんなに偏見が多いのだろう?嫌いだったら嫌いと言えばいいのに、全国紙でも間違った論理展開を・・

以下朝日新聞11月9日付け 《ニセ科学って何だ?〈ニュースの本棚〉より》
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データより自分の思い込み 科学医療部・久保田裕

一見、科学的な主張に見えるものの、実は科学でない。そんな主張を、ニセ科学とかエセ科学、疑似科学などと呼ぶ。
血液型でその人の性格が分かるとする血液型性格判断や、マイナスイオンを浴びると健康になるとか、水に「ありがとう」と話しかけるときれいな結晶ができ る、などといった類いの主張のことだ。先月亡くなったスティーブ・ジョブズ氏ががん治療に取り入れ、のちに悔やんだと伝えられる食事療法などの代替医療に もニセ科学は多い。
人の行動や発言は、理性や客観性、科学的事実といったことより先に、自分が元から抱いている感情や思い込みといったものに左右されやすい。最近、この傾向が大きく出たのが、東京電力の福島第一原子力発電所の事故で放出された放射性物質に対する人々の態度だろう。
「ニッポン、頑張ろう」というかけ声のその陰で、「放射能を散らすので、福島製の花火は打ち上げるな」とか、「福島から来る放射能に汚染されているトラックは走らせるな」とか、「地元の送り火で岩手県産の松は焼くな」といった過剰反応がいろいろ出た・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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血液型の話とマイナスイオンや水の結晶の問題を同列に扱うことはできないのではないか?すべて同じ類のニセ科学だと切って捨てているのは新聞記者の書くことではないのではないかと思う。私も自分で統計をとったわけではないが、この新聞記者も自分で統計をとって書いているのでないことは、一読するとわかる。「人の行動や発言は、理性や客観性、科学的事実といったことより先に、自分が元から抱いている感情や思い込みといっ たものに左右されやすい」と言っているが、自分で統計をとっているのでなければ、まさにこの記者自らが思い込みに左右されているのだ。こんなに短い文章の中で矛盾した論理を展開しているのである。新聞記者というのはこんなものなのか!血液型で性格が判別できることが正しいかどうかという以前の問題なのだ。

新潟島まちづくり人交流会

新潟島でまちづくりをする人たちの初めての交流会があります。そのチラシの制作と写真提供をさせてもらいました。

今までまちづくりをする人や団体間の有機的な連携があまりなかったため、力を合わせて新潟を良くしてゆくためのきっかけにしようと、何人かの呼びかけ人の人たちが企画しました。まちづくりは地域に住むすべての人たちの問題でもあるはず。まち作りに専門家も素人もないのではないかと思います。一人一人が町を作っています。多くの人に参加したくなるような仕組みを作るのがまちづくり団体の仕事ではないかと思います。究極の水平思考とアイデアで町を楽しくし、横の交流を阻んでいるなわばり意識や専門化から自由になりましょう。


以前、若い人と話をしていて「まちづくりはおじさんおばさんの趣味だからな」と言われたことがあります。つまり、若者にとって魅力のある活動にしてゆけるということも大切なことではないかと思いました。「新潟総踊り」のようなものにだけ発散の機会を奪われて、若い人たちにとって魅力がなく見向きもされないのでは、時代に取り残されてしまいます。ある意味、総踊りは宗教集団のような不気味さを感じてしまいます。下手でも踊れば救われる、と。これも時代の閉塞感からくる現象でしょうか?もちろん踊るのは自由ですが、どこかなにかヘン。主宰している代表に一向宗のような教祖になるつもりはないのかもしれませんが、そもそも新潟のオリジナルではないヨサコイを広めようというのが間違っている、と感じます。しかしこれも一つの社会現象でしょうから、時代背景や若者像、その時代の病理を敏感に反映した若者の姿なのだろうと思います。

そもそも、まちづくり活動は地域の文化を発掘していこうというのが、若い人たちには古く、まだるっこしく、絶滅危惧種の文化には魅力を感じないのだと思います。

そのまちづくりを魅力的なものにしていくことがまちづくり団体には求められているのではないかと思います。

「鳥屋野潟を考える」

本日2011年11月12日 新潟県立生涯学習推進センターにて「鳥屋野潟フォーラム」に。
基調講演は五百川清さんの『鳥屋野潟の今、その未来』鳥屋野潟を考える上で第一のポイントは低い土地だということ。以前は田んぼと直結していた鳥屋野潟は新潟で最大の湖沼。信濃川と阿賀野川などの河川に囲まれた輪中地帯にあり、いわゆる横越島の中にあった。洪水の時には潟に直接水が流れ込んだ。流作場という地名は流れが作った場所ということ。昭和6年に完工した大河津分水は中央が考えて作ったものではなく越後の先人が300年も前から考えていたもので、昭和に初めにようやく完成。その後急速に土地改良事業が進んだ。今の越後平野の美田は大河津分水のお陰だ、と。生物多様性のためにはヨシ原、入り江、水路、浅瀬、干潟など様々な水環境が必要だと!

鳥屋野潟をどう活用するかという企画発表では「とやの話和輪の会」の佐藤雅之さんが報告 。鳥屋野潟を市民の宝にしよう、ということで公園として活用するための提案。そのコンセプトは潟と人との共生をめざし、水に親しめる様々な企画提案がなされていた。

その後の各団体の意見発表では「女池校区コミュニティ協議会」会長の白根慶治さんの報告。問題山積の鳥屋野潟のことを考え始めると夜も眠れないと。国、県、市でのプロジェクトチームを作り、活用を考える。「山形地区コミュニティ協議会」会長の田中保夫さんは背割り排水路の整備を。「鳥屋野地区21世紀の会」会長の星野英仁さんは環境水利権の設定の必要性を。「自然ゆたかな鳥屋野潟とまち作りをすすめる会」の事務局長の本間藤四郎さんの発表では計画されている築堤は本当に必要かという提起を、以下にレジュメの文章を転記させていただきます。

『鳥屋野潟に「築堤」は必要か』
新潟県は2008年11月、鳥屋野潟の周りに堤防を築く計画(最大1メートルのかさ上げ)を発表し、工事の前提となる公図の確定を今年度で終えるとしています。しかし、この事業は県がいうように、亀田郷の治水対策として本当に必要で役に立つものなのか。また、貴重な潟の自然を台無しにするおそれはないのかなど、多くの疑問があります。
 1.「すり鉢の底」の鳥屋野潟に堤防?
亀田郷一帯に降る雨の大半は、一番低い位置にある鳥屋野潟に集まり、導水路を経て親松から信濃川に排水されます。「すり鉢の底」といわれるその方の周りに堤防を築いて果たして意味があるのか。豪雨被害を防ぐ有効な対策になるとはとうてい思えないーこれは多くの人から出されている根本的な疑問です。
2.「多極分散型排水」その他の多面的な排水が必要
①大きな被害が出た1998年の「8,4水害」以後、親松排水機場の隣に「激特事業」で鳥屋野潟排水機場(40t/s)が新設され、親松からの排水量は約1.7倍(60t/s→100t/s)に増やされました。

2011年11月11日金曜日

ホテルオークラ新潟で新潟のカレンダー2種販売開始しました

 ホテルオークラ新潟で2012年版新潟のカレンダー「にいがた萬代橋」を販売し始めました。


ホテルオークラ新潟は萬代橋のたもとにあるホテル。新潟観光やビジネスではもっともいい場所にあります。お立ち寄りの際にはインフォメーション脇で販売しておりますので、よろしくお願いいたします。

新潟のカレンダー

2007年からオリジナルカレンダーを作成しています。当初カレンダーを作ろうと考えたのは、要望がある割に、地元新潟のカレンダーの販売がなく、需要に応えていないのではないかと思い、長年撮影している新潟の風景でそういった声に応えてみようと思い立ったからです。実際に書店にお願いすると、レジ前の商品として積極的に販売をしてくれました。

正直、高い印刷費を回収するための販売にかかる事務作業は大変ですが、毎年楽しみにしていらっしゃる方々のために作っているところがあります。写真の内容は独りよがりかもしれないけれど、新潟の風土や自然などの原風景をちょっとずつおすそ分けし、見直してもらい、新潟の景観を考えるために、少しでも良いアクションにつながって行くようなきっかけ作りになれば嬉しいです。

新潟市に旧小澤家の邸宅と庭園を寄贈した小澤さんのはからいで、お向かいの町屋風自宅兼事務所の通りに面した座敷に置かせていただきました。小澤さんは新潟の町並みを真剣に考えていらっしゃる方で、寄贈された旧小澤家住宅の活用をする企画をいくつか立ち上げていらっしゃいます。
2012年新潟の風景カレンダー

向かいの町屋風事務所で小澤さんが直接カレンダー販売

新潟市の旧商家の作りを見ることが出来る旧小澤家住宅

2011年11月4日金曜日

2012年版 新潟のカレンダー「新潟原風景」「にいがた萬代橋」販売店

2012年版カレンダー2種の販売店です。以下のいずれかでも購入できますので、よろしくお願いいたします。

紀伊國屋書店新潟店、文信堂書店CoCoLo万代店、アークオアシスデザイン新潟店、北書店、横場精良堂、戸田書店新潟南店、英進堂、佐藤エハガキ店、知遊堂、くまざわ書店デッキイ店、くまざわ書店アピタ新潟西店、くまざわ書店アピタ新潟亀田店、時の旅人館、りゅーとぴあ、石山人形店、みなとぴあ、

以上、すべて新潟市内です。

2011年10月28日金曜日

2012年新潟のカレンダー「にいがた萬代橋」発行


今年も「にいがた萬代橋」を発行しました。2008年より発行、今年は少し仕事に余裕があったので、早めに出せました。信濃川の最下流、河川と川港を分ける橋で、先の大恐慌の頃に作られたのに、コストをかけて強度や耐震性を併せ持った素晴らしい橋、その上、御影石の化粧張りを施した外観は、80数年の星霜に耐え、今も市民の誇りになっております。

橋を作るときに、路面電車を走らせようとしたことが、結果的に交通量が増えた現代でも架け替えということにならなかった理由のひとつだろうし、新潟地震に耐えて、復興時には落橋した他の橋の代わりになったのも大きい。これは橋としては基本的な要件を満たしているというだけでなく、災害復興の象徴としての認識、美しさ、そしてなによりも新しい建造物が古いものよりも、けして良いわけではないのかもしれないということなど、現代の町を考える上では大切なレーゾンデートルだと思います。

萬代橋を世界一の橋に磨いて行くのはわれわれ市民です。

この萬代橋カレンダーは新潟市内の書店を中心に販売してもらっております。販売店をお知らせしておきます。

アークオアシスデザイン新潟店 紀伊国屋新潟店 北書店 ジュンク堂書店新潟店 戸田書店新潟南店 英進堂書店 文信堂書店CoCoLo万代店 くまざわ書店にいがたアピタ新潟西店 くまざわ書店DEKKY店 くまざわ書店アピタ新潟亀田店 横場精良堂 佐藤エハガキ店 知遊堂 時の旅人館 新潟空港 りゅーとぴあ みなとぴあ 石山人形店 ホテルオークラ新潟 NPO法人ボランティア亀田  ほか

2011年10月22日土曜日

新潟のカレンダー 2012年「新潟原風景」販売開始

新潟をテーマとした2012年版オリジナルカレンダー販売のお知らせです。

2007年より作成している新潟のオリジナルカレンダー 2012年「新潟原風景」の販売を開始しました。




【2012年カレンダー「新潟原風景」】
各月毎に新潟県内各地の風景で構成したオリジナル壁掛け型カレンダーです。タンザック製本で金属やプラスチックを使用していないエコカレンダーです。しかも国内で最も環境に優しいとされている北越紀州製紙の紙を使用しました。
販売価格:1,575円(税込み)

詳しくは下記HPにてご覧ください。
http://www.jphoto.jp/pg319.html

2011年10月13日木曜日

万代長峰小学校

今日はまずまずの陽光の下、萬代橋の近くで小学生に撮影指導。主催は小学校近隣の自治会、企画はビープロデュースで「ふるさと新潟ガイド体験活動」の校外研修。最終的に子供たちがアナスタシアに乗って発表会となる。昨年から私が写真を指導、発表会にも参加させていただいた。チームごとの発表は小学校6年生とは思えないほどの素晴らしい出来映え。参加した講師の人たちや市役所、海上保安庁などの招待者たちはしきりに感心していた。今年の6年生も発表会に向けて成長して行くのが楽しみである。


条件がいいことばかりじゃない中でどう表現するかが大切



楽しい撮影会に。沢山の質問を受けた。

お世話になった自治会の方々とお礼の挨拶
みんな時間も忘れて写真を撮影するのを楽しんでいた。

2011年9月21日水曜日

神戸ビエンナーレ記録集 発売

 9月に二日と半日の撮影に出かけた神戸ビエンナーレのガイドブックが発売されました。
まだ作品は展示されていないので、風景及び作品展の会場になるエリアの様子などの写真です。表紙や扉になっている写真を撮影しました。下記リンクの女性が持っているページや表紙の写真など、以下URL参照。



http://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/p1_0004468283.shtml



2011年9月12日月曜日

ゴーヤ

今年の夏も暑かった。と、振り返る頃なのに昨日は九月も半ばになろうというのに、とても蒸し暑く、夜になってもなかなか気温が下がらなかった。震災後のエアコンの使用自粛は我が家ではほぼ無視せざるを得なかった2階住まいの生活、リビングから一歩出たデッキにはゴーヤの緑のカーテンが目を和ませてくれる。

プランターに植えたゴーヤは最初の頃、沢山の花をつけ実がつき始めた。しかしいっこうに大きくならない。葉も貧弱で、暑い日中には枯れそうなくらいにしおれてしまっていた。プランターの土の水持ちが悪いのではと、プランター用の皿を購入して、その皿にもヒタヒタになるくらいに水をあげ始めたら、どんどん蔓が伸び始め、花も沢山に。そして、鉛筆くらいの太さがやっとだった果実も大きくなり始めた。

今では繁茂した緑のカーテンは毎日目を和ませてくれ、どんどん成長して、長さ20センチ前後にまでに育った実は何度も食卓に昇り我が家の家計?にも貢献してくれている。

2011年8月1日月曜日

729 新潟福島豪雨

萬代橋と信濃川 河口から3.5キロほどだが、橋脚は
いつもより40センチくらいは水没していた
 新潟を特徴付けている信濃川や阿賀野川の豊かな水の恵みが一転して、流域の住民を恐怖に陥れた。今回の豪雨は7年前の713水害と同じようなメカニズムによるものだという。私の住む新潟市の中心部では前日28日、スタジオにいるときに、今までに経験したことのない強烈な雨が降った。新潟市中心部では、その後比較的雨は少なかったようだが、新潟・福島を横断するように停滞した前線の周辺では29日の昼近くに至るまで、各地で沢山の雨を降らせていた。


信濃川と親松排水機場排水口
新潟市中心部では雨の峠は越していたせいで、排水量は少なかった。
 降雨は両大河に集まってくる。その水量はおとなしいときの川の水量と比較するとどのくらいになるのか?ふだんは畑や田んぼとして使われている広大な河川敷がほぼすべて水没した上に、いつもの緩い流れとくらべて、かなりのスピードがあった。
10時ころ見たトラック

上記写真から30分ほど経過、まだ水量は増加している
新潟市の信濃川と比べると、阿賀野川の水量の方が目視でもずっと多く感じたのは、信濃川には大河津分水によって、すでにかなりの水量がはき出されているためで、かえって信濃川本流より分水の水量の方が多いのではないかと感じた。

つまり、分流している分水町より上流ではかなりの水量が流れていることになる。
NHKテレビでは信濃川下流域の様子を東日本大震災の時のようにヘリコプターで実況中継していたが、天候の条件が悪かったせいで、三条市付近より上流には行かなかったようだ。しかし本当に水量が多かったのは、もしかすると長岡から大河津分水までの間だったのかもしれない。

この記録的な豪雨禍の中でも、7年前の水害の後に行われた五十嵐川の改修工事や信濃川下流部での堤防かさ上げ工事のおかげで、今回はかろうじて決壊を免れたと言える。それもすれすれ免れたと言えるほどの状況だった。いったん水が堤防を超えると、一気に被害が拡大するのが水害の怖いところかもしれない。








小阿賀野川にある水門、住宅より水面が高くなっている




古い小須戸橋の取付部分に堤防のかさ上げ処理を
していないため、土囊を積んで警戒していた

関や分水から別れた信濃川本川の
水量調節のための堰

大河津分水河口の激流
大勢の人が見物したり写真を撮影したりしていた

阿賀野川の濁流

2011年7月24日日曜日

梅田千代さん

私のハガキやカレンダーを愛用していただき、一つ一つの写真について心温まる感想をしたためたお手紙や、ハガキをくださった梅田千代さんが他界されてから半年以上経った。

お亡くなりになったのを知ったのは新潟日報の惜別欄でだった。

年始めに、差し上げたカレンダーの御礼を頂戴し、その後お電話もいただき、1月20日にお書きになった葉書が届いて、数日後に他界された。

千代さんはことあるごとに、ご連絡くださった。

とてもとても丁寧な方で、最後のハガキは4泊5日で万代さくら園の5階から萬代橋を見ながらしたためていると書かれていた。
新潟で勇気と元気をもらえる大切な友人であった。計算してみると27年前に他界した私の母親と同じ年齢。不思議な縁であると今更ながら思う。

再開発で出来た今の住宅地に家を造り、最初の自治会長をさせていただいていた頃、再開発のエリアの一角の県有地で撮影していた手塚眞監督「白痴」(原作:坂口安吾)の映画のエキストラとして手を挙げられて、出演されたのがきっかけだった。その後も私がスチールの撮影をさせてもらった「降りて行く生き方」にも出演されていて、その姿勢にはとても感銘を受けていた。

千代さん、勇気と元気を与えていただきありがとうございました。

2011年7月22日金曜日

新潟広告賞 審査員講評

311の災害で表彰式が中止になってしまった新潟広告協会の協会報の審査員講評の原稿、本日が締め切り。自分で最新の顔写真も撮影、文章と併せて事務局にようやく15時前にメールで送る(^_^;) たった300文字くらいなのに手こずってしまった。この手のものを評価するのは難しい。感情の趣くままには書けないし(自分に利害関係のある業界のことだからか?) 広告のプロと言うにははなはだ怪しいものがある一カメラマンの分際で、人の作品を評価するのはちょっとツライものがある。

PENTAX 645D

先日、ペンタックスフォーラムより645Dのデモ機をお借りした。4000万画素のボディは少しずんぐりしてEOS1DsMark3の35ミリタイプ一眼レフに慣れた手には少し持ちにくさを感じましたが、これは慣れれば何とかなるのではないかと感じました。今まで二十年近く使ってきたEOSで慣れた使用感覚から移行するときの新鮮な感覚だと思えば、かえって楽しい。反面思ったよりも重量感がなく、長くて重いレンズをつけた場合に少しバランスが悪くなる不安感はあったが、車のシートなどに置いた場合の座りはとてもいいです。シャッターを切ったときのショックは驚くほど少なく、ミラーアップなしの手持ちでもブレが少なく押さえられそうです。これはミラーアップして、手持ちでも15分の1秒で切れたペンタックス67を思い起こさせてくれました。フィルム時代の67サイズを凌駕する画質にも関わらず、35ミリタイプと同じように使える手軽さがあります。もしかすると私の使っているEOS以上にカメラブレやシャッターブレは少ないかもしれません。しかも抑えた価格設定で、防水性能を高めたボディは、過酷な自然環境の中に持って出るのも気になりません。

今回借りたデモ機での撮影は、ほぼ雨の中での撮影となりました。レンズが濡れることを気遣い、自分で傘を差したりタオルを被せたりしながらの手持ち撮影がほとんどでしたが、シャッターブレも少なく、慣れれば安心して作画に専念できるカメラだと思いました。風景撮影においても迷うことなく、手持ちで撮影しようという気持ちになれるというのはとても大切なことだと思います。なぜかというと、三脚を持ち出してセッティングする手間も惜しいほどに自然の風景は変化のスピードが速く、ある意味、人物の表情などよりも再現不可能なシャッターチャンスが多いのが自然の風景なのではないかと思います。

特に、新潟の雨霧雪などの湿潤な気候の地域で風景撮影をする場合には、防水性能や堅牢性は大切な要素だと思います。ペンタックス67のように、山岳撮影にも気にせず持って行きたくなるカメラの伝統は継承されているのではないかと感じました。そして機械だということを忘れさせてくれるカメラが私にとってこの上ないカメラなので、使っているうちに馴染み、機材感もなくなり、自然の息吹を感じることに何の障害もなくなってくるようなカメラだとありがたいなと思いました。人物撮影にも言えることだと思いますが、被写体との間にカメラが介在していることが気にならなくなるカメラになると、いい写真が撮れるようになるのではないかと思います。

デジタルは特に画素数や画質がいいに越したことはありません、特に最近は大判プリンターを使った大伸ばしや、画像処理によって損なわれてしまう画質を考えると、少しでも大きい解像度の方がいいので、(EOSに比べると)ノイズの少ないシャドー、使用するときに極力長辺をカットしなくてもよいフォーマットじゃないのがありがたいです。

欲しくなってしまったのは言うまでもない。しかし後戻りができなくなってしまう怖さがあります。フィルム時代には考えられないほど速い機材の買い換えサイクルの短さ。それとともに、更新するパソコンやソフト。デジタル時代になって我々の業界の仕事のあり方が激変し、決していい方向には向かっていない撮影料金の問題など。フィルム時代と比べるとかえってコストがかかる割には、回収しにくい時代です。

今回色彩のモードはナチュラルで通しましたが、これは後で必ず現像処理でイメージカラーに仕上げるために、画質の劣化を最小限に抑えるためです。特にシャドーを、思った色と明るさにコントロールしやすい645Dのデータは非常に助かります。かなり暗い部分までつながっていてくれる安心感があります。色彩の美しさはメリハリのあるはっきりした色で感じるというよりも、無限に変化してゆく色と明るさを、その通りに表現してくれるところに感じるのではないかと思うので、特にシャドーとハイライトに向かっていくグラデーションの部分が大事。潜在意識に訴えてくるようなところまできちんとつながってゆくような色彩の破綻のなさを表現できることがハイエンドカメラには求められると思います。

2011年6月10日金曜日

ポストカードセット「新潟まち物語」完成

昨日、新潟の古い木造の文化財や建物や町並みをテーマにしたポストカードセット(12枚入り)が完成しました。すべて自分で撮影、デザインしたもので、新潟市の中心部でのみ販売。価格は840円(税込み)です。
内容は擬洋風建築の旧新潟税関庁舎・鍋茶屋通り・齋藤家別邸・白壁通り・広小路・新潟県議会旧議事堂・燕喜館庭園・地獄極楽小路・旧小澤邸などです。

瀬戸内国際芸術祭2010作品記録集


昨年2月から11月までで11回通い、撮影してきた芸術祭作品集が完成しました。といっても4月に発売。私の手元に届いたのは第二版目分で一ヶ月ほど遅れました。

3月9日に坂井基樹編集企画事務所で写真校正中、地震があり、その二日後に東日本大震災。そのせいで印刷が遅れ、結局、最後にプライベートで行った瀬戸内・豊島の戸高さん作品の写真撮影(表紙になりました)の後、半年かかり記録集が手元に届きました。

全体に、FMスクリーン印刷で風景の写真の調子は思ったよりも自然な色で奥行き感のある仕上がりになっておりました。坂井基樹さんありがとうございました。

暑い夏の間は、なかなかスッキリとした好天に恵まれなかったのですが、会期が終了してのち晩秋の寂しさがただよう豊島の唐櫃・岡のため池に差し込む透明感のある秋らしい斜光線で、水の濁りも感じさせない表紙の写真となりました。瀬戸内の中にあるの豊島らしさがこの空気感の中に表れているのではないかと思っております。あくまでも旅人としての感想かもしれませんが・・・

この写真を見ていると、何度も通った豊島が懐かしく思い出されます。

2011年4月11日月曜日

アースデイ新潟2011

アースデイ新潟実行委員会の主催でイベント開催予定。2011年4月29日(金)にビュー福島潟で

私は協賛行事として、写真展を4月10日から29日まで開催。最終日の29日には山根麻似さんのコンサートで映像のコラボレーションをします。

ビュー福島潟で写真展開催

アースデイ新潟実行委員会の主催で、写真展を開催中です。

タイトルは
中村脩写真展「豊かな水の国にいがた」です。

期間は4月10日から29日まで。テーマはタイトルのとおり、豊かな水環境を有する新潟の美しい風景を紹介しています。ビュー福島潟の1階から2階に至る階段の壁面に展示しています。

是非ご覧下さい。

2011年3月31日木曜日

朝日新聞3月31日朝刊記事「全電源喪失 米、30年前にシナリオ」

記事によると、
アメリカの研究機関が1981年から82年、福島と同型の原子炉について、すべての電源が失われた場合のシミュレーションを実施、報告書を米原子力規制委員会(NRC)に提出していたことがわかったという。NRCはこれを安全規制に活用したが、日本は送電線が早期に復旧するなどとして、想定しなかったという。そのなかで、原子力安全研究協会の松浦洋次郎理事長(元原子力安全委員会委員長)は「何もかもダメになるといった状況は考えなくてもいいという、暗黙の了解があった。社会の状態に対するある種の信頼があったからだ。隕石の直撃など、何でもかんでも対応できるかと言ったら、それは無理だ」と話したという。


2011年3月31日朝日新聞朝刊

隕石の直撃と電源が失われるということとは次元の違う話だと思うのだが、今回の事故では、NRCのシミュレーションがそのまま当てはまるという結果になってしまった。おそらく、ほとんどの人は電源が失われた場合の推移が、こうなるということは知らなかったと思うし、既に30年も前にアメリカの原子力政策でこのシミュレーション結果が生かされ、地震国日本では軽視されていたということについても知る人は少なかっただろう。

今回の地震と津波に対する警告



以下は2009年6月24日に開催された原子力安全・保安院の会議の議事録。この会議の席上、地震学者の岡村行信氏が福島第一原子力発電所を含む各地の原発について、津波の驚異に対する基準の見直しに言及していた。


総合資源エネルギー調査会原子力安全・保安部会 耐震・構造設計小委員会 地震・津波、地質・地盤 合同WG(第32回)議事録
http://www.nisa.meti.go.jp/shingikai/107/3/032/gijiroku32.pdf


以下抜粋・・・


○岡村委員 まず、プレート間地震ですけれども、1930年代の塩屋崎沖地震を考慮されているんですが、御存じだと思いますが、ここは貞観の津波というか貞観の地震というものがあって、西暦869年でしたか、少なくとも津波に関しては、塩屋崎沖地震とは全く比べ物にならない非常にでかいものが来ているということはもうわかっていて、その調査結果も出ていると思うんですが、それに全く触れられていないところはどうしてなのかということをお聴きしたいんです。

 ○東京電力(西村) 貞観の地震について、まず地震動の観点から申しますと、まず、被害がそれほど見当たらないということが1点あると思います。あと、規模としては、今回、同時活動を16考慮した場合の塩屋崎沖地震でマグニチュード7.9相当ということになるわけですけれども、地震 動評価上は、こういったことで検討するということで問題ないかと考えてございます。 

○岡村委員 被害がないというのは、どういう根拠に基づいているのでしょうか。少なくともその記述が、信頼できる記述というのは日本三大実録だけだと思うんですよ。それには城が壊れた という記述があるんですよね。だから、そんなに被害が少なかったという判断をする材料はないのではないかと思うんですが。

○東京電力(西村) 済みません、ちょっと言葉が断定的過ぎたかもしれません。御案内のように、歴史地震ということもありますので、今後こういったことがどうであるかということについては、研究的には課題としてとらえるべきだと思っていますが、耐震設計上考慮する地震ということで、福島地点の地震動を考える際には、塩屋崎沖地震で代表できると考えたということでございます。

○岡村委員 どうしてそうなるのかはよくわからないんですけれども、少なくとも津波堆積物は 常磐海岸にも来ているんですよね。かなり入っているというのは、もう既に産総研の調査でも、 それから、今日は来ておられませんけれども、東北大の調査でもわかっている。ですから、震源域としては、仙台の方だけではなくて、南までかなり来ているということを想定する必要はあるだろう、そういう情報はあると思うんですよね。そのことについて全く触れられていないのは、どうも私は納得できないんです。

畑村洋太郎「失敗学のすすめ」に津波に関する記述が

畑村洋太郎氏の2000年に刊行された単行本「失敗学のすすめ」の94ページに以下の文章が記されている。



『失敗情報が減衰することを示す典型例をもう一つあげましょう。昔から何度となく大規模な津波被害を受けてきた岩手県三陸海岸を歩いたときに実際に見聞した話です。津波というのは、海底地震や海面への氷河や岩石の崩落によって発生した海面が伝わり、高い波となって海岸に押し寄せるもので、天候に起因する高潮とは区別されます。入り組んだ海岸線を持つリアス式海岸では、先に来た波が後ろから来る波に追いつかれて徐々に波高を上げていくという現象が起こりやすく、V字型湾ないしU字型湾の湾奥にある集落に大きな被害をもたらします。三陸海岸は、津波被害を受けやすいリアス式海岸であるばかりか、沖には地震の巣である日本海溝があるため、世界一の津波常襲地帯として知られ、何度となく津波被害を受けてきました。津波は学術用語として「Tsunami」で世界に通用します。その三陸海岸の町々を注意しながら歩いてみると、あちらこちらに津波の石碑を見つけることができます。大規模な津波が押し寄せるたびに作られたもので、犠牲者も多かった古い時代の石碑は慰霊を目的にしていました。その中には、教訓的な意味合いが込められたものもあり、波がやってきた高さの場所に建てられ、「ここより下には家を建てるな」という類の言葉が記された石碑も少なくありません。九十五ページの写真を見てください。この石碑にはここより下に家を建てるなと書いてあるのに、そのすぐ下に家が建っているのです。日々の便利さの前にはどんな貴重な教訓も役立たないことを物語っています。昔から伝わるそんな忠告を人々が忠実に守り、いまでも石碑より下には絶対に家を建てないなど徹底した津波対策をとっている地域ももちろんあります。かと思えば別の地域では、便利さゆえに先達たちが残した教訓を忘れて、人が次第に海岸線に集まっているところもありました。そんな地域もいまでは防潮堤がつくられるなど対策がとられていますが、その昔は教訓などまったく忘れたある日、再び突然やってきた津波ですべてが押し流されてしまうということもあったのです。その経験もやはり石碑に教訓として刻まれたりしますが、それでもなお一部の地域では便利さゆえに海岸線に住み続けています。このように、一度経験した失敗がごく短期間のうちに忘れられ、再び同じ失敗を繰り返すことは珍しくありません。三陸海岸という津波常襲地帯で行われてきた過去の例にも、「失敗は人に伝わりにくい」「失敗は伝達されていく中で減衰していく」という、失敗情報の持つ性質がはっきりとうかがえます・・・・・』

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今回の東北地方の震災は不幸にして、昔の失敗情報が正確に伝わっていなかったという最悪の実例になってしまったようだ。

2011年3月25日金曜日

東日本大震災・・・助け合いの精神

もしかすると、災害時に日本人がこれだけ統制がとれ、おのおのの不平不満を言わずに、海外からも賞賛の声が多数上がる。美徳と言っていい日本人一般の特質は、日本で昔から災害が多く発生してきた歴史と関係があるかもしれない。災害時は戦争と違って、皆平等である。災害弱者は生ずるが、それは結果であって、人間が人間に対して不公平をした結果ではない。例えば内戦などが多く発生する国だと、自国民同士でも、いつまでたってもいがみ合うということがあるかもしれない。しかし災害は基本的に人間がえり好みをして、艱難を多く与えたり、少なくしたりということがない。あくまでも偶然性が支配する出来事なので、罹災した人々はお互いに共感の和で結ばれる。そしてその共感の力が日本を作ってきたのではないか。

新潟を含め、近隣各県は原発放射能漏れの避難者を積極的に受け入れているようだ。緊急時なので受け入れ経費負担などは速やかに処理しているのだろう。これも今までの災害の経験が生きているようだ。速やかに災害対応にシフトできるのが行政に課せられた指名のひとつ。それは、国がやればいいとか、誰かがやってくれるだろうという次元では、一刻を争う状況に対する対策の遅延が、事態を悪化させてゆくということを知らしめるのに、報道が毎日のように取り上げていることが効果を現している。テレビは速報性で。新聞はきめ細やかな情報収集のための道具として。ウエブはまだまだ正確性という点での信頼性に欠けるところはあるが、テレビや新聞で抜け落ちている部分を穴埋めするためにはいいのかもしれない。

2011年3月21日月曜日

吉村昭「三陸海岸大津波」

吉村昭氏の過去の津波のルポである。ネットで調べて購入。読んでみて驚いた。恐ろしく今回の津波と似通っている津波が過去に何度も起きていると言うことが。

地震の前にこの本を読んでいたら、少し誇張があるのではと思っただろう。しかし・・・情報伝達手段が発達し、災害に対する対策が昔とは比べものにならないくらい進んでいる、と思われる現代でも、恐ろしいくらい被災の様子は似通っている。実際は吉村氏が描写した恐怖よりも恐るべき阿鼻叫喚をきわめた災害になってしまったような気がする。

2011年3月17日木曜日

3月15日の陸前高田市内

陸前矢作付近(海から8キロ程度内陸)
この日は朝3時に起きて、昨日戻った道を陸前高田へ。国道343号線で市内に入る手前、海から8キロくらいの場所から津波の被害が始まっていた。竹駒というところで気仙川沿いから分かれ、鉄道沿いの盛り土の右側の低いところを流れて、被害を出した。この場所で標高数十メートルはあるのではないか?写真で見える場所の住宅でおじいさんが亡くなったと教えてくれた方の住宅は一階が浸水して、すぐ後ろの山側の家は難を免れた。


気仙川沿いに市内中心部に向かう途中も、がれきや乗用車やタンクローリーが、川であろうと道であろうとあたり構わず散乱していた。


栃ヶ沢(酔仙酒造や高田酒販があり、お酒の匂いが・・)
市街地が見え始めたところで、写真のようにがれきが数メートルの山となり、それ以上先に進めないところで車を止めた。気仙川沿いの低い場所ではなく、山が迫っているので、海から2.5キロくらいの位置で津波は止まっていた。しかし、この場所で標高30メートルから40メートルはあるのではないか?津波の被災した最前線で明暗を分けている。阪神大震災でも、中越沖地震でも経験していない津波による被害の様子を初めてまのあたりにし、表現する言葉が見つからない。地震による直接的な倒壊等の被害が少ないため、この場所で振り返ると、地震や津波があったとは思えないほどの違いを見せていた。



被災した陸前高田中心市街地を望む
テレビでは繰り返し被災時の様子やその後の惨状を目にしているのだが、実際にその場所で見るのはやはり違う。表現力がないせいもあるが、言葉で表現しきれなく・・・では映像で表現できるかというと、やはり映像は映像でしかない。映像の限界である。すでに言葉もなにもかも、表現する方法を失ってしまっている。これだけの光景を目の当たりにして、理屈で考えられることには限りがある。たくさんの人が死んだ。たくさんの生活や縁が絶ちきられた。少し前まで何も問題のなかったところが、見渡す限りの残骸の町になった。どう理解すればいいのか理屈では・・・

とにかく多くの人たちの生命と生活を形作っていた様々なものが断片化し、かき混ぜられて、今まであり得なかった荒漠とした光景を生み出してしまった。感覚も感情も涙も凍り付いてしまうような光景を。


流された自宅から衣類を運ぶ夫婦
今回の地震では揺れの後、津波が町に到達するまで、非常に短い時間しかなかった。場所によって違うが、15分から20分くらいと言われている。これでは陸前高田のような大きな町では、ほとんどの住民が逃げる時間がない。しかもこんなに大きな波が来ると想像した人はおそらくほとんどいなかったことだろう。
山際に近い住宅にいた人の中でも、たまたま誰かから連絡を受けたり、津波が押し寄せてくるのを見たりして山に駆け上がり、間一髪で逃げられたという人が多かったのではないか。写真に写る赤い屋根の住宅に住んでいた老夫婦も、水に足をさらわれかけたという。奥様は2年前に足を骨折して、多少不自由があったらしいが、その時はうそのように走れたという。家は山際に近いため、数十メートル流されて、止まった。物置は40メートルほど更に山側、すなわち内陸に流されていたが、どちらも屋根がのこり、母屋は二階部分が残ったため、ご夫婦で、できる限りの荷物を運び出していた。


写真を仕事にしている私としては、どうしても、被災地に散乱している写真やアルバムに目が行く。この写真に写っている子供は今どうなっているのだろう?記念写真というのは人間関係の幸福のバロメーターかもしれない。その幸福を感じさせてくれるような写真を見ると惨禍の悲惨さが一層身に迫ってくるものがある。不思議と被災地のあちこちに写真がたくさん散乱していた。



3月14日南三陸町に入る

3月14日、被災地に入った。三陸地方は山あいの道を通って海岸の町に行く。地震の時には陸の孤島になりやすいのかもしれない。新潟を昼近くに出たために、既に日が暮れ始めて、暗闇になる直前に南三陸町に入ったが、暗い中でもその被害の様子を見ることができた。三陸鉄道の高架から線路が垂れ下がり、道路から10メートルくらいある鉄路の上に車が乗り上げていた。あちこちLED懐中電灯の光が揺れていた。脇を通過した光を持った被災者と思われる人に黙礼された。

町に入るためのその道路は、三陸鉄道の高架のあたりからは寸断されていて、それ以上は行けなかった。そこから先に歩いてゆくこともできず諦めて、その日は平野部に戻った。平野部もどこまで行っても真っ暗闇で、時々車のライトが光るのみであった。信号も街灯も町もなにもかも暗く、目印が少ない知らない町で、ナビのついた車で走っていても、さ迷っている感覚だ。ガソリンスタンドもコンビニもスーパーもなにもかも電気が消えて、食料もガソリンも心配になってきた。その日は築館の町で車中泊。

2011年3月9日水曜日

「瀬戸内国際芸術祭2010」記録集

今日は東京日帰りで写真の最終校正作業に行ってきた。とても美しい新雪の湯沢の谷間の高速を経て、関越トンネルをくぐると、枯れさびた谷川連峰の麓の上州の風景だった。本当に不思議なくらい違う分水嶺をはさんだ春3月の風景だった。

校正作業
神田神保町での校正作業中、はっきりとした地震の揺れ。最初は比較的短い周期の地震、そのうちゆっくりとした長周期の振動になった。すこしの間、天井を見ながら揺れの収まるのを待つ。編集プロダクションはビルの二階、編集部員の方々はひたすらパソコンに向かう光景を目の前にしての校正刷りのチェック作業。途中食事、二時?のおやつをいただき都合3時間ほどの作業の後、帰途につく。

記録集のページ立てはバラバラでよくわからなかったが、表紙周りやカバー扉などのデザインが気に入った。芸術祭の会期の遙か前から撮影を始めた風景等がふんだんに使われていて、「水と土の芸術祭2009」の記録集同様、風景を積極的に撮影してきた結果が反映されていて、できあがりがとても楽しみだ。

2011年3月7日月曜日

田中ウルヴェ京さんの講演

先日、ソウルオリンピック銅メダリストの田中ウルヴェ京さんの講演に誘われて行ってきた。京さんはオリンピックの時に小谷美佳子さんとデュエットを組んで前回のオリンピックから正式種目になったシンクロで銅メダルを獲得した人。

講演のタイトルは「メンタル対策で差がつく企業力」

15歳からシンクロナイズドスイミングの世界で活躍してきた京さんは11年前にメンタルトレーナーの会社を興し、最初は主にスポーツ選手向けのメンタルトレーナーの業務を行ってきた。今は様々な分野、特にビジネス社会向けのトレーニングを行うことが多いという。

なぜメンタル対策なのか?・・・それは実力を出すため!

例えば人生の節目を迎えた人や戦力外通告を受けた人にも役立つ。人生を前向きに生きたい、こうありたいという目的のある人にメンタル対策を施すのは楽である。問題はそうでない人に対するメンタルトレーニングは難しい。

スポーツ選手は自分自身の目標、対して企業戦士の目標は?会社の目標や組織の目標と自分の目標とのすりあわせが難しい。

目標がない人にはどう対処するか?
それには、「自分を知ること」そこから自己目標を知ることができるようになる。

企業人には自分を知りたくないという人がいる。つまり企業の中で会社の目標の中で自己目標を沿わせ、自己実現してゆくことができない、したくないという人たちがいる。


大学4年で銅メダルをもらった京さんは小さい頃から歴史に残る人物になりたと思う。小さい頃から死ぬのが怖いという感情にとらわれ、寝ることもできないほどに悶々とすることがあった。そういう不安感を払拭する考えとして出てきた結論は歴史に残る人物になるということ。メダリストになればその後の人生が何とかなると思った。しかし成功したと思った時点でその後の目標がなくなる。なにか勘違いをしているということが後になってわかる。


「自分を知らない」というストレス。
間違った自分像・・・認知行動療法ではエゴ(〜であるべき)、自分はこう見られるべき、自分はこう扱われるべき。しかし社会は自分の思う自分像を与えてくれない。したがって自分を悲劇のヒロインにする。自分なんかどうせ〜・・・という考えに陥る。

自分にはストレスなんかない。そんな自分ではないという相対評価を経て。マイナススパイラルに陥る。

最後は、ネガティブな達観に至る。「別に・・・」「こんな自分でいい」「それで当然だ」という感じ!

京さんはマイナススパイラルに陥っている自分を知らなかった。

そんな時に、新聞の特集で「あの人は今」というタイトルの取材依頼に愕然とし返事の声がうわずってしまい声にならない。電話を切った後に泣いてしまった。例えば自分が失敗したときに人のせいにしたりすることや、自分の現状を人のせいにするというような状況に陥っていた。そんな心理状態ではよいことが起こったときにも喜ぶことができなくなる。

強烈なストレス!

その後アメリカに留学。27歳の大学院の時に教授にライフラインを書かされた。それは縦軸に幸福感、横軸が年齢のグラフ。京さんはすべてプラス側だったが、本来はゼロを中心に推移すべきグラフだ。

このグラフの意味は何をやり遂げたではなく、どう感じたかという幸福度をチェックする意味。一流の競技家には過去の成功によって今現在の自分自身に自身がないという人が多い。

その後のトレーニングで感情日記を書かされるようになった。それは日々の出来事とその時の感情を記してゆくものだ。京さんはこれまで出来事に対して動じる自分を他の人に見せることができなかったが、その対策でもあった。感情を出すのはストレス対策にもなる。要は出来事が自分を落ち込ませるのではなく、そのことによって勝手に自分が落ち込むということを冷静に考えさせることができるようにするためのトレーニングでもある。

その「勝手に自分が思う」ということがその人の考え方の傾向を決める「考え方のフィルター」だということなのだ。その人の考え方の癖とも言える。

大学院の先生は日々の感情トレーニングを通して、京さんに自分の感情を素直に出すことの大事さを教えた。人は感情の動物だ。その感情に向き合いコントロールすることが大事だ。いらいらするのはなぜか?嫉妬するのはなぜか?先生は京さんが小谷美佳子さんに対して嫉妬を抱いていたことを自ら気づいたことを褒めた。先生自身も70歳を過ぎてもたくさん嫉妬することがある、と説明した。

そしてそういう自分に気づくことが大切で、気づけば自分を変えられると説いた。




最後に、京さんは三つの格言を紹介!

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1)Success is doing your own thing for the benefit of others「成功とは他人のために自分のやりたいことをやることだ」

2)リーダーはマトリョーシカの(一番小さな)人形になれ。

3)普通とか一般とか常識とかを考えるな。

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2011年3月1日火曜日

アートの魅力でまちづくり−小川弘幸氏の講演

新潟市都市政策部市街地整備課まちづくり支援室主催の「まち作り講座」5回シリーズのうちの一つを聴きに行ってきた。

NPO文化現場を主催する小川氏は、東京に住んでいた坂口安吾が戦後まもなく出身地新潟の新聞社の文化誌に掲載した「地方文化の確立について」という記事に出会い、東京の亜流ではなく、独自のものを目指せ、文化が大事だ。と説いている安吾に大きな影響を受け、「よみがえれ安吾」を出版。その後、倉庫美術館、天寿園などを経て独立。

倉庫美術館に籍を置いていたときに、アパルトヘイト否!という美術展を日本で巡回していた北川フラム氏と出会っている。そして天寿園では実川館長のもと、当時家庭の雑排水などでかなり汚れていた鳥屋野潟の環境などをテーマにした地域作りなどに関わり、文化と環境などを絡めた活動に興味を抱く。

小川氏が考える「地域の文化度」とは?文化を育む土壌があること。それは文化的な場を作る人がいることや、場をつなぐ人がいることと説く。大地の芸術祭にはとても関心を持っていたので2000年の第一回から行っている。

そのうち「水と土の芸術祭2009」が開催される。唐突と言ってもいいような感があった。新潟市が政令市となり8区の一体感をはかるために開催された面もある。しかし「水と土・・・」というテーマは限りない可能性を持っている。海を越えて広がる可能性や新潟のアイデンティティにかかわる大きなテーマになる可能性がある。対して、同じ新潟市が昨年から主催しているラフォルジュルネはフランスのナント発。ラフォルジュルネは一方向だからある意味楽かもしれない!しかし「水と土・・・」は新潟発だから自分たちで組み立ててゆく必要がある。だから面白い。市民の活動意欲を喚起する企画になるだろう。時間をかけても対話し、核となるものを(理念)を見つけ、市民同士共有。それを元に2012年の芸術祭をスタート。

この芸術祭の企画は市民が主体的に関われるいい機会なので自主的に関わり、企画も作れる面白さ。「水と土・・・」の縁でどんどん外部や世界と広がる可能性。2009年の第一回は市民にどれだけ知られていたか疑問だが、一回やって終わりというのではなく、継続すべき。行政と市民の協働のいい機会でもある。

だいたいこんな内容だったように思う。

2011年2月24日木曜日

クライストチャーチの地震

新潟県中越沖地震での被災者救助の様子
ニュージーランドのクライストチャーチで22日のお昼頃起きた地震の報道を見て、改めて都市型地震の危険な面を見た。マグニチュードは弱くても、直下型が怖いのは自重で簡単に倒壊する建物が出てくるということだろうか?

私自身、1995年の阪神淡路大震災の被災地を見て回った後に、都市がいかに地震や大災害に弱いかということを痛感した。今回の地震で被災したCTVビルの崩壊の様子を見ると、阪神ではこういった壊れ方は少なかったのではないかと思うが、例えば東京で直下型の地震が起こると、予想もしなかったような様々な壊れ方をする建築物が沢山ありそうな気がする。

都市ではないが、2004年10月23日の新潟県中越地震では、ずれた断層の付近で車が飛び上がって少し離れた場所に移動しているところを見たし、雪に強い骨太の住宅でも、完全に倒壊している家屋も沢山見た。これが今年のような積雪の多い冬に起きていたら、もっともっと倒壊家屋は増えていたはずである。日本は耐震化は進んでいるとは言っても、まだまだ、直下型地震に対応できる住宅や公共の建物などは少ないのではないか?と思う。

神戸の場合は直下型ではなく、岩盤の上に乗った柔らかい地層のせいで、六甲の山並みに反射して戻ってきた大きな横揺れのせいでいっそう被害が拡大したらしい。神戸のある旧商店街のような古い町並みで、ほぼすべての建物が道路中心に向けて倒壊している場所を見た。言葉は適切ではないが壮観な光景であった。どうしてこんなことが起きるのかと、疑問に思ったが、比較的六甲に近い場所だったからこんな倒れ方になったのかもしれないと、後で専門家の説明をテレビで見て少し納得したが、いずれにしても場所によって、建物によって壊れ方が違うのが人知の及ばないところである。

新潟県中越沖地震で一階がつぶれた家
2007年7月16日に発生した新潟県中越沖地震の時は地震発生5分後には家を出、被災地に向かっていた。高速道路はおそらく通行止めになっているだろうと思い、新潟市内にある自宅から海沿いの道を選び、とにかく走った。震源から10キロほどのところまで来たら海岸沿いの道路に崖崩れがあり通行止めになっていたため、内陸に入る。柏崎市の市街地中心部に向かうため、東京電力柏崎刈羽原子力発電所近くの集落の間を縫うように走っていたところ、レスキューの救助の現場に出くわした。おばあさんの一人暮らしの世帯で、大きな古い家の一階にいたところを被災。完全に一階がつぶれた状態の中で、大きなけがもなく救助された。その後おばあさんは東京で住んでいる息子さんに引き取られ、家は取り壊された。東京で同居することになったという。おばあさんが助かったのは、現場の状況を見ると、おそらく二階が落ちてきたときに一緒に落ちてきた梁と梁の間にいたから助かったのではないかと思う。構造材は強度を保つには大切だが、いったん崩れると凶器となる場合がある。何が生死を分けるかは、まさに偶然というほかない。

2011年2月20日日曜日

第52回新潟広告賞審査会

本日(平成23年2月18日)新潟市内NST新潟放送局にて新潟広告協会主催で新潟広告賞の審査会が行われました。私は今年から審査員を勤めさせていただくことになりました。
今年の応募数は景気の動向を反映してか、昨年の応募数の3分の2ほど。少し寂しいスタートでしたが、昨年一昨年該当作品がなかったグランプリが満場一致で出ました。審査時間も昨年よりも長くなり、9時より4時半近くまで、頭と心をフル動員するような心地よい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。

内容的には、時代を反映したり問題提起した作品にいいものが見られたような気がします。やはり、広告は時代を映し出す鏡だということが言えるのではないかと思います。しかしそういったことを感じさせないような、現代の状況を反映していないようなものは、印象が薄くなる傾向があるような気がします。個人的な希望としては、広告主が与えられた条件を見極めた上で、果敢に新しいことにチャレンジし話題に上るような作品がもっと見たいと思いました。


審査員(審査委員長):原龍一郎(相模女子大学教授、日本広告学会クリエィティブ委員)
審査員:中村脩(日本広告写真家協会会員)
審査員:山本敦(クリエィティブディレクター)
審査員:本望典子(コピーライター)
審査員:外山洋一(新潟広告協会)


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−応募パンフレット案内文−
新潟広告協会は、広告があらゆる人々の生活向上に役立つ情報とし、地域文化の振興と経済活性に寄与することを目的に活動しております。「新潟広告賞」もその一貫として、昭和34年に創設されました。以来、県内で制作された優れた広告作品を顕彰し、地域広告のレベル向上を図る目的で毎年実施してまいりました。今回、第52回目の実施にあたり、作品を募集いたします。応募された作品は、厳正な審査を経て、優れた作品は入賞作品発表会の席上で表彰いたします。多数ご応募ください。
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2011年2月19日土曜日

新潟の原風景と弦楽四重奏・・・朝日酒造(株)主催

朝日酒造(株)文化事業部主催Sandoコンサートも無事?終了。

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映像:中村脩
出演:佐々木將公 村田泰子 加野晶子 片野大輔
曲目:
・前半(主よ人の望みの喜びよ・弦楽四重奏曲皇帝)
・後半(赤とんぼ・夢・白夜・勇気と祈り・夏の風車・Indian Summer・見上げてごらん夜の星を・雪割草)
プロデュース:アンサンブルオビリー
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リンク:朝日酒造(株) 文化事業部
http://www.asahi-shuzo.co.jp/sandoconcert/index.html


朝日酒造のエントランスホールはとても音響のいいホールで、かえって音楽専用ホールよりも、聞きやすいのではないかと思います。

前半はオビリーの演奏のみ。
後半の曲は私が新潟で何度かピアノの演奏会を企画主催しているウォン・ウィンツァン氏の曲をアレンジしてもらい、映像とのコラボレーション。
最後の曲、「雪割草」は佐渡在住の篠笛奏者狩野泰一氏のオリジナル曲で、昨年文化庁主催事業で私の映像と狩野泰一氏とのコラボレーションを新潟県民会館大ホールで開催した時にも映像付きで演奏した曲です。(他に出演は片野氏・佐渡の若林美津枝氏・アトランタの宮本貴奈氏)演奏会のために知人である片野氏を狩野氏に紹介したことが縁で、今回の朝日酒造での映像と音楽のコラボレーションにつながりました。もとはといえば、片野氏も三条市の知人に紹介してもらったことから一度演奏会を主催させていただいたことがありました。その時は坂口明(ベンジャミン君)とのデュオコンサートで、映像とのコラボレーションというわけでは無かったのですが、ベンジャミン君は新潟県音楽コンクールでグランプリを取った強者で、その奔放で天才肌の演奏ぶりには、音楽の素人の私でもぞくぞくするものを感じさせてくれ、主催していて楽しいコンサートになりました。そのベンジャミン君もアメリカに武者修行に行き、少し苦労して本物のアーティストを目指していたのですが、最近新潟に帰ってきているという噂を聞いています。

今回の朝日酒造のエントランスホールにはピアノがあり、ベンジャミン君に演奏してもらい映像とのコラボレーションというのもいいのではないかと想像しながら、コンピューターとプロジェクターの操作をしていました。今までは音楽に映像を合わせていたところがあるのですが、映像に合わせての即興演奏というのもいいのではないかと思います。

こんな風な演奏会は、もともと、ウォン・ウィンツアン氏のピアノと映像のコラボレーションを企画して提案したいなと7〜8年くらい前に考えてはいたのですが、仕事が忙しくなり、企画が延び延びになっておりました。


ウォン・ウィンツアン氏ホームページ(サトワミュージック)
http://www.satowa-music.com/mac/

2011年2月16日水曜日

第二回「愚の講座」・・・北川フラム氏の講義 20110216

北川フラム氏の第二回「愚の講座」が新潟駅南プラーカ3で開かれた。これは水と土の芸術祭2009でディレクターを勤めたフラム氏の自主的な講義である。

今回の内容は、新潟市が大きな宝である水や土にまつわる歴史や文化の上に成り立っていることを新潟市民が今以上に自覚し、それをもっと生かすことが必要との観点に立ち、では芸術家や芸術祭に何ができるかということの問いかけだった。

新潟に水と土の芸術祭のために初めて入ったときの印象は、ガサガサした所・・・(まとまりがなく、歴史的文化的地政学的なアイデンティティみたいなものが欠如し、刹那的な生き方をしている人たちが多いというようなことを意味しているのか?)

しかし、もっと入ってゆくと面白い人もいるし面白い場所もある。特に世界的にも面白いと言えるのは、亀田郷の水や土にまつわる土地。それが前回のテーマになった。そして普遍的なテーマとして、新潟が世界的に誇れるものになる。

新潟はかつては日本一の人口!それは多くのよそ者を受け入れ食べさせてきた土地柄、県民性があったから。それは新潟の宝。他者との交わりは新潟の特質。異質な要素を排除し始めるとダメになる。

芸術祭は芸術家という他者を受け入れその土地には異質なものを作るプロセスの中に真価がある。実際このことがあったから、大変ではあったが、物事が動き始めた。協働の始まりである。

アーティストに求めることはコミュニティデザイナー。妻有のリアリティは集落単位にあり、効率とは逆の非効率的なプロセス、つまり200の集落にこだわってやったことが成功のポイントだった。

行政と一緒にやる意味は反対者(立場の違う人)と同じ場所に立てることである・・・

以上、講義の内容を大まかに要約しました。

2011年2月8日火曜日

第17回新潟市景観審議会(第11期)

本日2月8日午前10時より新潟市役所本館6階 議会第一委員会室にて、景観審議会が開かれた。屋外広告物審議会と景観審議会が合体した後の第一回目の会議でした。従って議事内容は、
①会長及び会長職務代行者の選出
②新潟市景観審議会および新潟市屋外広告物審議会の統合の報告
③その他。

ということで、最初の顔合わせの会合でした。

新潟市景観審議会

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(担当部署)

新潟市建築部住環境政策課 景観係




審議会委員は以下・・・





(知識経験を有する者)

新潟大学名誉教授 大熊孝

新潟大学工学部教授 西村伸也

新潟県立大学国際地域学部教授 山中知彦

新潟大学工学部准教授 黒野弘靖

日本ユニバーサルプランナー協会 高松智子

NPO法人まちづくり学校 安田文子

弁護士(新潟市弁護士協会) 長谷川均

新潟市消費者協会副会長 高橋昌子

写真家 中村脩




(市民公募委員)

佐川清

石塚保

長澤千夏




(関係団体の意見を代表する者)

(社)新潟市建設業協会副会長 小田等

(社)新潟市建築士会新潟支部 山本恵子

新潟県広告美術業協同組合理事長 加藤紘一

(社)新潟市造園建設業協会理事長 川崎弘

(社)新潟県商工会議所連合会専務理事 遠藤修司

新潟市ホテル旅館業連絡協議会会長 篠田孝




(関係行政機関の職員)

国土交通省北陸地方整備局建政部都市調整官 高石将也

新潟県新潟地域振興局地域整備部長 山森和敏




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以上