2011年3月17日木曜日

3月15日の陸前高田市内

陸前矢作付近(海から8キロ程度内陸)
この日は朝3時に起きて、昨日戻った道を陸前高田へ。国道343号線で市内に入る手前、海から8キロくらいの場所から津波の被害が始まっていた。竹駒というところで気仙川沿いから分かれ、鉄道沿いの盛り土の右側の低いところを流れて、被害を出した。この場所で標高数十メートルはあるのではないか?写真で見える場所の住宅でおじいさんが亡くなったと教えてくれた方の住宅は一階が浸水して、すぐ後ろの山側の家は難を免れた。


気仙川沿いに市内中心部に向かう途中も、がれきや乗用車やタンクローリーが、川であろうと道であろうとあたり構わず散乱していた。


栃ヶ沢(酔仙酒造や高田酒販があり、お酒の匂いが・・)
市街地が見え始めたところで、写真のようにがれきが数メートルの山となり、それ以上先に進めないところで車を止めた。気仙川沿いの低い場所ではなく、山が迫っているので、海から2.5キロくらいの位置で津波は止まっていた。しかし、この場所で標高30メートルから40メートルはあるのではないか?津波の被災した最前線で明暗を分けている。阪神大震災でも、中越沖地震でも経験していない津波による被害の様子を初めてまのあたりにし、表現する言葉が見つからない。地震による直接的な倒壊等の被害が少ないため、この場所で振り返ると、地震や津波があったとは思えないほどの違いを見せていた。



被災した陸前高田中心市街地を望む
テレビでは繰り返し被災時の様子やその後の惨状を目にしているのだが、実際にその場所で見るのはやはり違う。表現力がないせいもあるが、言葉で表現しきれなく・・・では映像で表現できるかというと、やはり映像は映像でしかない。映像の限界である。すでに言葉もなにもかも、表現する方法を失ってしまっている。これだけの光景を目の当たりにして、理屈で考えられることには限りがある。たくさんの人が死んだ。たくさんの生活や縁が絶ちきられた。少し前まで何も問題のなかったところが、見渡す限りの残骸の町になった。どう理解すればいいのか理屈では・・・

とにかく多くの人たちの生命と生活を形作っていた様々なものが断片化し、かき混ぜられて、今まであり得なかった荒漠とした光景を生み出してしまった。感覚も感情も涙も凍り付いてしまうような光景を。


流された自宅から衣類を運ぶ夫婦
今回の地震では揺れの後、津波が町に到達するまで、非常に短い時間しかなかった。場所によって違うが、15分から20分くらいと言われている。これでは陸前高田のような大きな町では、ほとんどの住民が逃げる時間がない。しかもこんなに大きな波が来ると想像した人はおそらくほとんどいなかったことだろう。
山際に近い住宅にいた人の中でも、たまたま誰かから連絡を受けたり、津波が押し寄せてくるのを見たりして山に駆け上がり、間一髪で逃げられたという人が多かったのではないか。写真に写る赤い屋根の住宅に住んでいた老夫婦も、水に足をさらわれかけたという。奥様は2年前に足を骨折して、多少不自由があったらしいが、その時はうそのように走れたという。家は山際に近いため、数十メートル流されて、止まった。物置は40メートルほど更に山側、すなわち内陸に流されていたが、どちらも屋根がのこり、母屋は二階部分が残ったため、ご夫婦で、できる限りの荷物を運び出していた。


写真を仕事にしている私としては、どうしても、被災地に散乱している写真やアルバムに目が行く。この写真に写っている子供は今どうなっているのだろう?記念写真というのは人間関係の幸福のバロメーターかもしれない。その幸福を感じさせてくれるような写真を見ると惨禍の悲惨さが一層身に迫ってくるものがある。不思議と被災地のあちこちに写真がたくさん散乱していた。



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